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泡茶開講@日本軍人精神の権化、その名は中村輝夫さん

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 インドネシア・モロタイ島で高砂義勇兵(第二遊撃隊に所属し歩兵一等兵)アミ族出身の中村輝夫(後にスニヨン/李光輝・1919-1979)さんが戦争が終った事も知らず一人ジャングル生活を続け、横井庄一さん、小野田寛朗さんに続いて、1974年の12月に発見され、翌1975年1月8日に台湾に戻りました。

 1945年の敗戦を以って米・ダグラス・マッカーサー(秘密結社フリーメイスンの高級幹部でもある)の指令で占領の為に賊軍・国民党の陳儀を派遣以来、台湾と日本内地の『解体劇』が始まりました。 そして日本政府やマスコミは1972年以降、支那礼賛・遠慮の為に殆ど彼を無視します。 つまり先の報道で話題になった横井さん、小野田さんと違って、表だってでは無く話題にならないようにこっそりと、見舞金200万円、閣僚のポケットマネーから150万円…こればかりはさすがに酷すぎですね。

・・・であろうことか皮肉かな『戦後ニッポン人権左翼』が騒いでくれたのでようやく台湾出身の兵士・軍属に対する補償などが1987年に行われました。 最もこの『戦後ニッポン人権左翼』たちは以前から調子付いているので、騒げば金になると中華民国による圧制下で生活する貧困層に『歪んだ知恵』を植えつけてエスカレートするわけですが、この場合日本政府の台湾島住民に対する疎遠さは彼らに対し弾圧や反日教育を裏で続ける中華民国の『報告』を鵜呑みにし過ぎでありサイコ野郎に隙を与えちゃった訳であります。

 また、発見された時はすでに日本人ではなく『中華民国の国民』とされて帰って来た台湾島は、モロタイ島で孤独に耐えながら懐かしく偲んでいた故郷とは大いに食い違ったものがあったようでした。 

 彼は都櫪という村に戻った際「小野田さんの帰郷狂騒曲」程ではないが大歓迎をされ、記念の棒球(野球)大会が行われました。  そこでなんと第一打席でホームランをかっ飛ばしたのですが、さもそれは33年間の憂さを 吹っ飛ばすような爽快さだったと。 中村さんはモロタイ島の密林のなかで想っていたのは、結婚したばかりの妻との事と選手として活躍した野球の事ばかりだとか。

 農業に従事し紆余曲折の後に復縁と相成ったものの、彼を待っているはずの妻も他の男性と再婚、病気らしい病気もしなかった彼はそんな失意の内に台湾に帰島後わずか4年で肺ガンで1979年死亡。 享年61歳の若さでした。 

「日本の皆さんにご心配をかけて…ありがとう。 機会があれば日本に行ってみたい。」

 日本を訪れることはなかった彼は・・・立派な日本軍人精神の権化だと表現しても良いでしょう。 果たして、このように我々日本人の記憶からも遠のいていって良いのだろうか?孤独や失望に耐えながらも、これはまさしくまっすぐな信条を最後まで貫き通す姿の中村さんなのだと思う次第だね。

久保田泰啓

by ayanokouji3 | 2005-05-31 16:04 | 日台に関わる人物 | Comments(3)  

Commented by zer0zer00 at 2005-08-04 08:54
私はこの「中村輝夫(李光輝)」さんのことを知りませんでした。初めて知りました。恥ずかしい話です。
私にも台湾の友達もいてとても反日の中国人や朝鮮半島人と違い、良き日本の理解者で親日的な台湾人には好感を持ちます。
もし、よければ私のブログでも紹介させてください
Commented by 竹下義朗 at 2005-08-04 20:28 x
久保田さんのご投稿ですので、本来ならば私が答えるのも何ですが・・・久保田さんに代わって僭越ながら私よりお答えします。

どうぞ、貴殿のブログ上にてご紹介下さい。・・・中村輝夫さんの名誉の為にも、是非共お願い致します。
Commented by zer0zer00 at 2005-08-05 09:36
竹下義朗様、久保田様、ありがとうございます。

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