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自虐史観の彼方にあるものとは

自虐史観は人生観と表裏一体である。恐らく自虐史観の呪縛から脱し得ない人は、己の人生の不幸を他人のせいにする人であろう。例えば、教師のレベルが低かったので良い学校に進めなかったとか、上司が無能だったので自分も昇進出来なかったとか、である。これを推し進めて行くと、政府が、役人が悪いから、無責任だから、日本が駄目になった、これから一層駄目になる、という結論となる。

『台灣之聲』の読者に自虐史観の虜になっている人がもしいたら、小生が明言しておきたい。過去の日本政府の国策は事実として受け止めるべきであるし、現在の国策も決定されたら素直に従うべきである。もし、不満であれば、拉致被害者家族のように行動に移すしかない。幾ら言辞を弄しても効果はない。政府・役人は事件が国民の目に十分さらされる迄は、アクションを起こすことはないだろう。それでよいではないか。ジタバタしても始まらないのである。

自虐史観の彼方にあるものは一体何なのか。何もないというのが結論である。自虐史観により社会の進歩・改善を図ることはもとより、冷静な歴史分析も出来ない。そこにあるものは愚痴であり、「死んだ子の年を数える」愚かさであり、良いことは何もない。但し、自虐史観の一つの効用を挙げるとすれば、人生の敗残者のストレス解消策とはなり得ることだろう。

自虐史観はいずれ人とともに次第に朽ちて行くことだろうが、日本の社会は自虐史観を一切受付けない程、硬直した体制にはない。自虐史観を提唱する自由は当然あってもよい。但し、現時点で自虐史観を大声で唱えるのを聞いて、何となく痛々しく、空々しく感じるのは小生だけであろうか。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

by ayanokouji3 | 2005-05-18 23:05 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

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