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カテゴリ:自虐史観を斬る( 17 )

 

自虐史観を斬る(田中隆吉-4)

田中隆吉の言動は軍人社会においては許すべからざるものがあったことだろう。何故ならば、和平を主張していたという点を除けば、彼の上海事変における謀略工作は、他の戦犯の罪が正当であるならば、彼も戦犯として糾弾されて然(しか)るべきものであったからである。また、彼の証言により、陸軍の過去の軍事行動が誤解と偏見を生み、それが増幅され、自虐史観の恰好の材料となったことは当然のことである。東京裁判の目的は自虐史観の材料により正当化され、達成されたのである。我々はこうした一面を今一度考える必要がある。

昭和17年の武見太郎医師(後の日本医師会会長)による田中隆吉の診断書によれば、家族の病歴として、「精神病素因は陽性。父および祖父が自殺。」、また本人の病歴としては「既往黴毒(ばいどく=梅毒)による麻痺発症に対する不安」云々とある。彼の異常な行動の裏にはこうした精神・肉体面の障害があったことを認めなければならない。

現在は民主体制下にある。従って、世の各レベルの政治的指導者についても、国民・選挙民の利益を損(そこ)なわぬよう、自己の出自を明らかにし、完治しない精神障害の遺伝要素を隠しているのであれば、国民に対し「告知」する義務があると思う。尤(もっと)も、そうなれば、選挙に当選するのは困難となるだろうが。

(註)
『田中隆吉著作集』(昭和54年、自費出版)によれば、子息の手記には、田中隆吉の父および祖父が自殺したことは一言も書かれていない。また、ロッキード事件の児玉が、大森実との対談で、田中は脳梅毒で死んだと断言したことを、昭和21年検査の結果、梅毒反応は陰性だったとし、「全く事実と反する」としている。尚、上記昭和17年の武見医師の診断書では、黴毒は既に治療済で、ワッセルマン反応は陰性、としている。田中隆吉に関する参考資料としては、本人の著書のほか、粟屋憲太郎編『東京裁判資料・田中隆吉尋問調書』(大月書店、1994年刊)がある。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-17 20:05 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

自虐史観を斬る(田中隆吉-3)

田中隆吉の底辺に流れるものは私怨であった。彼は確かに人情家で、人の面倒を見たようである。能力もあり、憂国の情も人一倍あったと思う。併(しか)し、所詮それは匹夫の情であり、彼は一国の大事な時期に陸軍中枢の幹部をつとめるような器(うつわ)ではなかった。その証拠に、戦後に彼の記したものを読めば、誰しも怒るようなことが書いてある。今で言うところの週刊誌の暴露記事の類(たぐい)である。

真意が私怨であるが故に逆に救われた人達もいる。ジャワで死刑論告のあった今村均 陸軍大将と岡崎清三郎 陸軍中将である。彼はキーナンに、立派な軍人だとして死刑中止を求め、結果的に二人とも内地送還となった。これは抑(そもそ)も不公平というものだ。

さて、自虐史観というものの本質は私怨に基づく被害者意識である。それは己の不幸な運命を歎(なげ)き、誰かに何かに責任を転嫁せねば気持が収まらないという、下層社会の者や女子供の抱く感情である。その感情が意図的に増幅され、捏造され、これを利用せんとする勢力が手にしたとき、比類なき好材料となる。

東京裁判は国際場裡の舞台であったが、これに類したことは、国政、地方行政、団体・企業、個人の各レベルにおいても十分あり得ることである。

(註)
「自虐史観を斬る(戦場にかける橋-2)」参照。
小生はかつて岡崎氏の子息が防衛大学校の副校長をしていたときに、仕事上会ったことがある。また、柳川平助氏(「自虐史観を斬る(戦場にかける橋-3)参照」)の外孫(三菱商事重機部)にも会ったことがある。何(いず)れも昔のことには触れられたくないような様子であった。今こそ、職業軍人の子孫が声を大にして、父祖の歩みを説くことは大いに意味があると思う。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-17 13:17 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

自虐史観を斬る(田中隆吉-2)

ところで、論語(子路第十三)にはこう記されている。
「葉公語孔子曰、吾黨有直躬者。其父攘羊而子證之。孔子曰、吾黨之直者異於是。父爲子隠子爲父隠。直在其中矣。」(父は子のために隠し、子は父のために隠すことに正直が備わっている)

自虐史観は「證之」どころか、無を有となし、小を大となし、白を黒となし、一を十や百となす。これは勝者の歴史観の如くして、実は敗残者のそれであり、強者に媚び、従属する売国奴的歴史観である。到底自立した人間の歴史観ではない。

ところで、共産主義社会というものは馬鹿正直が密告して、何(いず)れは粛清されるという不条理な世界であり、人民が情報操作の何たるかを知らず、踊らされる奴隷社会であるが、一方でそうした環境を快適に感ずる人達もいるに違いない。自虐史観というのはそうした人達の存在理由の一つであり、勿論これを完全否定することは出来ない。そうした見方を葬り去る程、我思考は硬直していない。

併(しか)しながら、自虐史観に怒れる男達の一人としては、『日本国憲法』を「不磨の大典」とし後生(ごしょう)大事に抱えたり、「国際連合(実は連合国)」を国際紛争解決の最高機関として崇(あが)めたりするような、一神教的な世界から、一日も早く日本国民を精神的に「解放」することが急務であると考える次第である。それなくしては、何時(いつ)までも、政府が無策だ、首相が説明責任を果たしていない、米国は当然北朝鮮からの脅威に対して日本を守る義務がある、などといった子供染みた、幼稚な発想に終始することになる。内輪でそうした議論をするのは致し方ないが、国際場裡の舞台にそうした時代錯誤的議論の内容が伝われば、他国の侮(あなど)りを一層受けることになる。これは全く日本の恥であると思う。全国の知識分子諸氏に猛省(もうせい)を促す所以(ゆえん)である。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-15 21:38 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

自虐史観を斬る(田中隆吉-1)

陸軍の正規職業軍人が殆(ほとん)ど逝去した今となっては、田中隆吉を心底(しんそこ)恨みに思っている方々は皆無だと思われる。

昭和60年、谷田勇氏(「自虐史観を斬る(戦場にかける橋-3)参照)」と2回面談した時、当方よりも田中隆吉については触れなかったし、谷田氏もまた黙しておられた。谷田氏は自身「皇道派の末輩」と謙遜していたが、田中隆吉は統制派の一員であった。

二人を結びつけたのは憂国の思いであったことだろう。開戦時の兵務局長たりし田中隆吉は開戦後半年で和平を口にし、東條首相の悪口をいい、昭和17年9月予備役編入。一方の谷田氏は17年12月に敗戦のきざしを認識したという。翌18年5月、ラバウルへ転補、和平工作が憲兵に発覚したためであった。

谷田氏は、昭和48年、「偕行誌」にこう記している。
「 田中はしみじみと次のように語った。
『俺は、世間(せけん)、ことに旧陸軍から弾劾された。しかし、俺には三つの功績があったと自認している。第一は、天皇を戦犯はもちろん証人としても法廷に立たせなかったこと。第二は、A級戦犯の人員を絞ったこと。第三は、その人選を誤らなかったことである。』

 米国統合参謀本部は、既に21年1月に天皇を戦犯としない旨指令を出しているから、天皇戦犯問題については、田中自らが考えるほどの功績はないが、米国以外の検事団に声をひそめさせたこと、および最後の鍵である、東條被告の証言内容を事前に引き出した功は多としなければならない。(中略) 田中は後日宮内庁から下賜品を賜(たまわ)っている。このことは、現在、宮内庁の公式書類には残されていないが、田中は涙を浮かべてこのことを私に語った。」

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-14 10:38 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

自虐史観を斬る(慰安婦問題-3)

さて、「自虐史観を斬る(戦場にかける橋-1)」で紹介した西野氏著書には、当時のチェンマイの事情が紹介されている。同地に進駐して来た日本航空隊は小部隊であったので、慰安婦は送ってもらえなかった。隊長がチェンマイ領事館勤務の西野氏に相談して来たので、県知事に相談すると、30人程度の志願者を集めてくれた。志願者の中から10人程採用するのに、軍医による身体検査と隊長による面接があり、西野氏も立ち会ったが、全員以前から売春を業(なりわい)としていた経験者ばかりであったという。

西野氏も韓国やフィリピンはもともと反日感情が強い国だと指摘している。だからといって、「奴隷」という表現は一体何を意味するのか。慰安のために国家的威信がかくまでも傷つけられてよいものだろうか。

慰安婦問題は、全てを水に流す日本と、流さない他国の軋轢の所産であり、外交の具となり、これを大問題としたことは、外務省の失策であり、また宮澤・河野をはじめとする三流政治家が他国の恫喝に屈した、万死に値する「記念碑」的汚点である。この問題を煽る勢力の跳梁跋扈はエセ同和に似たものがあり、すさまじかった。その後慰安婦支援を国民的募金運動に格上げしようとする勢力があったが、運動は不発に終わった。国民はそれほど莫迦(バカ)ではなかった。

他方、そう安心ばかりも出来ない。第二、第三の「慰安婦問題」が起こらないという保証はない。これを防ぐには、全国の憂国の士が国民意識と輿論とを「見えざる手」で、不知不識の裡(うち)に良い方向に導くことである。客観的にみて、各方面の地道な努力のお陰で、確実にそのことは成就しつつある過程にあると思う。

それこそが自虐史観に怒れる男達の一人として、唯一の「慰安」にほかならない。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-13 20:08 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

自虐史観を斬る(慰安婦問題-2)

花柳病蔓延は大東亜戦争においても同様であった。その対策として、慰安所が設けられたことは至極合理的なことである。昭和40年代初め発行の歴史写真集には既に慰安所のことが紹介されており、小生は当時既にその事実を知っていた。

併し、後年、考えもつかないような大きな国際問題になろうとは誰が予想し得たであろう。軍組織の関与があったとして、それが如何(いか)にも国家的犯罪であるかのように日本政府が自ら認め、発表したのが間違いのもとであった。

抑も慰安なるものを提供させることが「制度」といえるのか。娼婦が自己の営業として行なったのであれば自己責任であろうし、騙(だま)されたのであれば、女衒(ぜげん)の個人的犯罪である。軍医による定期的「品質検査」があったからといって、直ちに国家的犯罪となるのか。聖人君子が、慰安がなければ生きて行けない常人の行為を非難したとしても、国家にその責任を問うたことがかつてあっただろうか。

かつて台湾で軍役を終えた複数の台湾人青年に軍の慰安所について聞いたことがある。彼等によれば、若い兵士のために、部隊の内部にそうした施設があったという。併し、それはそうした職業の女性達が志願して来ているのであって、これまた、論者が説くように、民間委託の食堂と何ら変わるところはない。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-12 11:57 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

自虐史観を斬る(慰安婦問題-1)

慰安婦問題について、今となっては話題になることも少なくなったが、過去の記憶を呼び戻してみたい。

慰安婦のテーマは、戦争の一側面を表わしている。人間の生理的・心理的欲求に関わり、古(いにし)えより存在するものであるが、これを一大問題として大上段に振りかざして論議するに価(あたい)するものなのか、というのがここに取り上げる理由である。

慰安婦問題を扱った一部資料に引用されており、また少しでも漢学に興味のある人なら誰でも知っている、中島敦の「李陵」には、概要次のような描写がある。彼の念頭には、昭和の大軍の後を追った娼婦達のイメージがあったことだろう。
(紀元前99年)陣中視察の時、李陵は偶々(たまたま)或(あ)る輜重(しちょう)車中に男の服を纏(まと)うた女を発見したので、調べてみると十数人の女が捜し出された。関東の群盗が処刑された後、寡婦で衣食に窮するままに辺境守備兵の妻となり、或いは彼等(かれら)を得意とする娼婦となり果てた者が少なくない。李陵は軍吏(ぐんり)に女等を斬るべく命じた。
シベリア出兵に従軍した祖父の日誌には、兵卒に花柳病(性病)が蔓延していたことが記されている。従軍兵士の遺稿集の中に、軍と共に移動した支那人の娼婦達を撮影した写真を見たことがある。彼女達は「従軍」していた訳ではない。論者が説くように、自ら求めて軍を追って行ったのである。

(註)
「従軍慰安婦」否定論には、肯定する立場の描くイメージとして、「野原で草花を摘んでいた可憐な少女達の前に、突然軍用トラックがやって来て、いやがる少女達を無理矢理連れ去った」とし、こういうことはあり得ないとするものもある。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-11 18:40 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

自虐史観を斬る(満蒙開拓青少年義勇軍-2)

満蒙開拓青少年義勇軍に志願した多くの少年達の出身階級は貧農であり、彼等(かれら)はその次男、三男であった。学歴は殆(ほとん)どが高等小学校卒、青年学校中退であった。満蒙開拓が他国を侵略した無謀な試みであり、青少年義勇軍が世界史上例のない少年武装殖民であり、国策による一大児童虐待プロジェクトであったと断定することはたやすい。併(しか)し、満洲国の体制と絡めていえば、本当にそうだったのか。

抑(そもそ)も満洲国の実態を正確に描写することは難しい。軍事面からいえば対ソ連の防波堤であり、行政面からすれば少壮官僚の実験場であり、また農政面からは耕す土地のない日本の零細小作農の伜(せがれ)やその一家の移民の受皿であり、経済面では新興財閥の進出の場、その他思想面で右翼を含む浪人の活躍の場でもあった。満洲国に関する書籍といえば、上記の定義に鑑(かんが)み、関東軍の阿片による資金捻出・支配の暗黒世界、三流官僚・学者の苦悩の退歩場、貧窮開拓農民の逃避行、「欺(あざむ)かれた」小国民の長い戦い等々、様々なテーマが取り上げられている。満洲国とは決して一枚岩ではない、当時の日本の利益代表や有象無象(うぞうむぞう)の衆がせめぎあう土俵であった。この体制を安易に批判することが出来るのか、当時の国際情勢、国民の経済・教育レベルを斟酌(しんしゃく)し、将又現在の国力、国際的地位、民度と比較して、篤と考えるべきである。

加藤完治は戦後公職追放となったが、次第に名誉を回復し、昭和40年には皇居園遊会に農林業功績者として招待された。その翌年、小学生であった小生が目にしたのは人間として安定した、その晩年の姿であった。翌42年3月死去。戒名寶泉院殿鏡譽福田教道完治居士。享年83歳。

(註)
小生は、以前初対面の年長者と話すとき、加藤完治の名を以て「リトマス試験紙」とした。その結果、大正生れの故老であれば知らない人はいないこと、昭和初年生れであれば半数程度知り、それ以降の生れでは殆ど知らないことが判った。
参考図書 「満蒙開拓青少年義勇軍」、上笙一郎著、中公新書、1973年刊
     「加藤完治の世界-満洲開拓の軌跡」、中村薫著、不二出版、1984年刊

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-10 12:19 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

自虐史観を斬る(満蒙開拓青少年義勇軍-1)

満蒙開拓-この切ない言葉の響きを身に沁(し)みて感じるという人は次第に少なくなりつつある。満蒙開拓といえば、次に来るのが開拓民を見殺しにして自分達の家族だけを先に移動させたという「悪名高き」関東軍である。開拓民の悲惨な最後は語り尽くされ、記し尽くされても、今尚毎年8月15日になると思い起こされるのである。

昭和41年秋の或る休日、郷里平戸の母の実家に、長いアゴヒゲとホオヒゲをたくわえた風格のある雰囲気の御老人と中年の女性(秘書)が突然来訪した。用件は祖母の病気見舞であった。小学生であった小生が後で母に尋ねると、昔有名な人だったという。実はこの人こそ、満蒙開拓の父といわれ、満蒙開拓内原訓練所を創設した、加藤完治(青少年義勇軍訓練所長、幹部訓練所長)、その人であったのである。家にあった日本歴史の写真集をみると、東條英機と二人で並んだ写真が掲載されており、子供心に納得したことを今尚鮮明に覚えている。

さて、満蒙開拓は、1932年秋の第一次移民団に始まる。1937年秋、満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書提出、1938年初頭、募集要綱決定、募集に着手した。但し、満蒙開拓青少年義勇軍の名称は日本のみで使用、現地では満洲開拓青少年義勇隊という名に変わった。3ケ月の訓練所生活を経て満洲に送り出した、その数86,530名。現地で3年間の訓練後開拓団へ移行したのは64,500名、うち、24000人余りが死亡したと推計される。尚、日本人開拓民の総数は27万人で、上記を含め78,500名が戦死・自決・病死・餓死・凍死したとされる。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-09 20:39 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

自虐史観を斬る(戦場にかける橋-3)

余談になるが、泰緬鉄道建設後、日本軍が捕虜と東南アジアの労務者のために慰霊碑を建てたことは広く知られていない。西野氏著書にはその碑文の写真が掲載されている。

    泰緬甸連接鐵道建設間不幸
    病ヲ得テ斃レタル南方各國
    勞務者及俘虜ノ爲此ノ碑ヲ
    建テ恭シク其ノ靈ヲ慰ム
     昭和十九年二月 
         日本軍鐵道隊

尚、浜田中将は1945年8月17日、「碁に負けて眺むる狭庭花もなく」の辞世の句を残して自決、享年50歳であった。

(註)
上記の慰霊碑建立のようなことは、南京事件についても言えることである。中支那方面軍隷下、第十軍(司令官柳川中将)の第三(後方)課長(工兵大佐)として南京攻略に参加した谷田勇氏の著書「龍虎の争い」(1984年、紀尾井書房刊)には、概要、次の通り紹介されている。
「南京攻略二周年の1939年12月12日を期して表忠碑を建てることとなった。工事の初めに『中国戦没将士の墓』を建設し、中国将兵の骨を拾い集め篤く葬ったことに感激した所在の村長連が積極的に協力を申し出、多数の中国人が参加した。桜の若木3000本を植えた、広さ50ヘクタールの公園建設は一個小隊(佐藤小隊)の工兵が9ケ月で完成させたという。著者は1957年、元日本軍人訪中団員として新中国を訪問したが、その公園(菊花台公園)が忠烈公園と名を改め、昔の面影を残しているのを見た。佐藤小隊の恩讐を越えた情けある日本武士的行為が当局の感情を動かしたのであった。」
古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

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by ayanokouji3 | 2005-06-08 15:10 | 自虐史観を斬る | Comments(0)