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北京五輪について-7

「中国」(支那)代表として男子110メートル・ハードルに臨んだ劉翔選手が棄権した事に対して、「中国」のネット上に、劉翔選手に対する批判・罵詈雑言(ばりぞうごん)が溢(あふ)れていると言う。

国旗を背負い国の代表として出場した選手である事は確かだが、満身創痍、実際には立っているのでさえやっとと言った状態だった劉翔選手に対して、「這(は)ってでもゴール迄行く可(べ)きだった」、「110メートルは、そんなに遠いのか」と言った一般的な批判だけならいざ知らず、「トンズラの劉」、「敵前逃亡」、「中国の面汚(つらよご)し」とは随分な言いようである。

「中国」のネットユーザーの全てが全て、劉翔選手に批判的である訳では無い。中には彼を擁護し、罵詈雑言を書き込んだ相手を非難する書き込みも確かにある。然(しか)し、それはあくまでも少数派だ。そこに日本と「中国」の国民性の違いを見たのは私一人だけだろうか?

スポーツ選手は練習にしろ本番にしろ、常に怪我(けが)や事故の危険性と隣り合わせであり、まかり間違えば選手生命さえ終わらせかねないリスクを背負っている。それは金メダリストであろうと無かろうと何ら関係無い。それを観戦するだけの「気楽な」傍観者が軽い気持ちで罵詈雑言を浴びせる等、過酷な練習に日々耐えている選手を冒涜する以外の何ものでも無いし、無責任でもある。

日本では、女子マラソンの代表に選ばれた野口みずき選手が直前の故障で欠場したが、ネット上に彼女を非難する罵詈雑言の大合唱が起こったであろうか? スポーツに怪我は付きものであり、出場直前に無念の欠場を決断せざるを得なかった彼女の心境を考えれば、当然と言えば当然の事ではあるが、罵詈雑言の大合唱が起こらなかった事は、矢張り日本の国民性であったと私は思う。

「中国」の(見せかけでありうわべだけの)発展には目覚ましいものがある。然し、この様な国民性では百年経っても「一等国」に等なれないだろうし、世界から尊敬される真の大国として認められる日が訪れる事は恐らく無いだろう。

竹下義朗 TAKESHITA Yoshiro

by ayanokouji3 | 2008-08-20 22:27 | Comments(0)  

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