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湯島聖堂における所感-4

実は、その日の『産経新聞』に石原都知事の随想が掲載されていた。何でも今の日本人には「心意気」が足りぬという。最後は武士道に結びつけるあたり、憂国の思いは感ずるものの、成功者が自己を韜晦(とうかい)するための一種のレトリック(言葉の綾)と考えられなくもない。

上記の内容は、小生の祖父の世代の人達が、戦後、石原氏の世代の人達を指して、漢文が出来ないとか、礼儀を知らないとか、老人を敬わないといって酷評した文章に類似している。老いた世代が若い世代をたしなめるという歴史は繰り返されるのである。そこに進歩はない。

さて、石原氏の世代の人達の先は余り長くないとしても、団塊の世代の高齢化が既に始まっている。また、ポスト団塊の世代の高齢化も指呼の間に迫っている。団塊の世代のノウハウ活用というお世辞はともかく、職場は彼らを早く押し出そうとし、妻は年金制度の切り替えを奇貨とし「熟年離婚」に向け準備している例もある。こうしたエネルギーが具体的に如何に「昇華」するのか、予断を許さないが、悲観的になり過ぎることはない。

最後に、天皇制度について考えた。郵政公社総裁の言に、「古典的なるものの破壊」というものがあった。聖域とされた郵政が民営化された後は、皇室の民営化である女系天皇の出現は止むを得ないものなのか。美智子皇太子妃の民間からの「調達」と皇太子妃殿下時代からのご活躍、紀子様のご精励、雅子様の「スト」という女性皇族方の一連の動きと流れの中で、一部の政治家の思い入れとは別に、日本国の全ての情報が集まるという官邸が未だに明らかにしていない真の理由があるのではないだろうか。今後の成り行きを見守るのみである。一部の台湾人にとっても大いに関心のあるテーマであるに相違ない。

この日はあたかも成人の日であった。彼ら若い世代に所感を呈したく、小文を認(したた)めた次第である。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

by ayanokouji3 | 2006-01-12 20:13 | Comments(0)  

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