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「生為台湾人的悲哀」について

(次は台北在住李叔徳氏へ送信したメールの一部である)

 「生為台湾人的悲哀」について、所感を述べます。

 小生の半生において、20歳頃から通算すると、学校・出張・旅行等で、非常に多くの台湾人と接触・懇談しました。そうした中、漢族・客家(はっか)・山地人を問わず、共通するのは「生為台湾人的悲哀」でした。

 勿論、「生為○○人的悲哀」として○○に世界各国の名を入れても特におかしいことはないのですが、台湾と入れるのが最も「合適」のような感じがします。尤も、そのことは飽(あ)く迄(まで)も、他国人から見た感じであって、台湾人の多くがそう感じているとは限りません。

 さりながら、台湾人が何故(なにゆえ)「生為台湾人的悲哀」といったものを、何時(いつ)までも味わわなければならないように見えるのか。それは台湾の歴史がそうさせているというよりも、実は台湾人自身が窃(ひそ)かにそれを望んでいるからではないでしょうか。

 人間には、得(え)てして宙ぶらりんの状態を好む傾向があります。台湾人は南方人らしく、楽観的、「大方」に見える一方、大陸人と比較すれば非常に繊細なところがあります。その絶妙なバランスが日本人と馬が合う理由ではないかと小生は考えます。

 日本は独立国とは言い乍(なが)ら、大東亜戦争によるトラウマからいまだに免(まぬか)れておらず、精神的には宙ぶらりん、その良い証拠が、70年もの長きに亙(わた)って、不磨の大典「日本国憲法」を後生(ごしょう)大事に護持して来たことです。

 米国への違和感・反感・同調・追従といったことは、疾(と)うの昔に「卒業」した筈(はず)ですが、何か知らん、民族的な潜在意識が垣間見えることが往々にしてあります。その意味において、日台は相共通するものを持っています(台湾の場合、日本・蒋介石・米国・大陸に対する複雑な感情)。

 台湾が今更(いまさら)中国に吸収されること(中華人民共和国、台湾特別行政区)はない方が良いのは勿論のことです。もし、歴史的背景の異なる香港やマカオ同様、一国両制のシステムに組み込まれるようなことがあれば、本当に台湾の終わりです。

 民進党が政権を握っている間に、その辺りのことは十分に警戒しておき、国民党との間に諍(あらそ)いを起しても、「兄弟鬩於牆、外御其悔(侮)」を肝に銘じて台湾内の一致団結を固めておいた方が将来のためだと思います。

 最後に「悲哀」のことに戻りますが、台湾人に限らず、人間には「開玩笑」と「幽黙」が必要です。それらさえあれば、暗い話ばかりで台湾全体に貧乏神が憑依して、台湾が中国に売り渡される企ては失敗に終わります

 台湾の政治家には大いに期待したいところです。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

by ayanokouji3 | 2016-07-27 17:59 | Comments(0)  

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