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自虐史観を斬る(満蒙開拓青少年義勇軍-1)

満蒙開拓-この切ない言葉の響きを身に沁(し)みて感じるという人は次第に少なくなりつつある。満蒙開拓といえば、次に来るのが開拓民を見殺しにして自分達の家族だけを先に移動させたという「悪名高き」関東軍である。開拓民の悲惨な最後は語り尽くされ、記し尽くされても、今尚毎年8月15日になると思い起こされるのである。

昭和41年秋の或る休日、郷里平戸の母の実家に、長いアゴヒゲとホオヒゲをたくわえた風格のある雰囲気の御老人と中年の女性(秘書)が突然来訪した。用件は祖母の病気見舞であった。小学生であった小生が後で母に尋ねると、昔有名な人だったという。実はこの人こそ、満蒙開拓の父といわれ、満蒙開拓内原訓練所を創設した、加藤完治(青少年義勇軍訓練所長、幹部訓練所長)、その人であったのである。家にあった日本歴史の写真集をみると、東條英機と二人で並んだ写真が掲載されており、子供心に納得したことを今尚鮮明に覚えている。

さて、満蒙開拓は、1932年秋の第一次移民団に始まる。1937年秋、満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書提出、1938年初頭、募集要綱決定、募集に着手した。但し、満蒙開拓青少年義勇軍の名称は日本のみで使用、現地では満洲開拓青少年義勇隊という名に変わった。3ケ月の訓練所生活を経て満洲に送り出した、その数86,530名。現地で3年間の訓練後開拓団へ移行したのは64,500名、うち、24000人余りが死亡したと推計される。尚、日本人開拓民の総数は27万人で、上記を含め78,500名が戦死・自決・病死・餓死・凍死したとされる。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

by ayanokouji3 | 2005-06-09 20:39 | 自虐史観を斬る | Comments(0)  

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