人気ブログランキング | 話題のタグを見る

尖閣の領海・領空侵犯を繰り返す「中国」は、日本にとっての匈奴である!

 いきなりで何ですが、日本固有の領土である尖閣群島(以下、単に「尖閣」と略)周辺の領海、領空を「中国」(支那)の艦艇・航空機が侵犯した事案は一体どれ程あったでしょう? ほぼ毎日の様に侵犯事案が報道されている昨今、我々日本国民は「なんだ、又か?」と言った感じで半ば神経が麻痺してしまっており、一々回数等数えていないと言うのが実情でしょう。ましてや、領海の外側に広がる接続水域や排他的経済水域(EEZ)への艦艇接近侵入、領空の外側に広がる防空識別圏(ADIZ)への航空機接近侵入ともなると更に頻度は増えます。私は此処迄(ここまで)「侵犯事案」と書きましたが、これも神経が麻痺しての表現であり、実際には領海・領空に対する故意且つ確信犯的な侵入なのですから「侵略」と表現するのが妥当だと言えるでしょう。この様な「侵略」を日々繰り返している「中国」は、歴史的にも国際法的にも全く領有権を有していない尖閣に付いて、「我が国固有の領土であり、確信的利益である」とか「中日間に領土問題が存在する事を日本政府は認めよ!」等と嘯(うそぶ)き、それでも安倍新政権が自らの主張に応じないと見るや、連立政権与党である公明党の 山口那津男代表の訪中を利用して「領有権問題は未来の世代に解決を委(ゆだ)ねる可(べ)く棚上げ」する言質を引き出して揺さぶりを掛けました。然(しか)し、これは抑(そもそ)も尖閣に関して日中間に領土問題が存在する事が大前提であり、日本固有の領土である所に、後から「中国」が一方的に何の根拠も無い儘(まま)、領有権を主張してきた経緯を勘案すれば、「棚上げ論」に日本が応じてしまう事は、日本が「尖閣は日本固有の領土」であるとする看板を下(お)ろす事に他ならず、一時的に尖閣を巡る両国間の緊張状態が緩和されたとしても、中長期的に見れば取り返しの付かない重大な禍根を将来に残す事になります。その「中国」が両国間の緊張を更に高める極めて危険な行為に及んでいた事が此処(ここ)へ来て明らかとなりました。2月6日、日本政府は1月30日午前10時頃、尖閣北方の東支那海公海上に於いて、海上自衛隊の「むらさめ」級護衛艦「ゆうだち」(DD-103 基準排水量 4,550t)が3km先を遊弋(ゆうよく)する「中国」人民解放軍海軍の「江衛(ジャンウェイ)-Ⅱ」級フリゲート艦(基準排水量 2,250t)より射撃管制用レーダーの照射を受けたのです。(詰まり、早い話がミサイルや火砲による攻撃目的で「ロックオン」されたと言う事) 軍事の世界に於いて射撃管制用レーダーの照射は「攻撃予告」(攻撃の前段階)と看做(みな)され、照射された側が対応措置として先制攻撃しても何ら問題が無い程の危険な行為なのです。今回の行為が「中国」政府或いは共産党指導部の指示によるものなのか、或いは当該艦の艦長の独自判断によるものなのか、将又(はたまた)、「中日開戦」を声高に叫ぶ軍の独走(暴走と言い換えても良い)によるものなのか、この際、その様な事はどうでも良い事ですが、只一つだけ言える事があります。それは、「中国」側の行動は日増しにエスカレートしており、まるで、日清戦争(First Sino-Japanese War)、支那事変(日華事変,日中戦争 Second Sino-Japanese War)に次ぐ、「第二次支那事変」(Third Sino-Japanese War)の開戦を望んでいるかの様であり、日本側が好むと好まざるとに関わらず、「中国」側は「日中開戦」に至る「パンドラの箱」を開こうとしているのです。

 米国の作家アンブローズ=ギンネット=ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce 1842~1913以後消息不明)は代表的著書『悪魔の辞典』(The Devil's Dictionary)の中で、

「平和・・・二つの戦争の時期の間に介在する、騙(だま)し合いの時期」

と述べ、支那の小説家であり思想家でもあった魯迅(ルー=シュン 1881~1936)も評論集『墳』収録の論文「摩羅詩力論」の中で、

「平和と言うものは、人間の世界には存在しない。強(し)いて平和と呼ばれているのは、戦争の終わった直後、又は未(いま)だ戦争の始まらない時を言うに過ぎない」

と喝破(かっぱ)している様に、「平和」とは戦争と戦争の間の「束(つか)の間の平穏な時期」に過ぎず、一旦は「棚上げ論」により「平和」が訪れたとしても、孰(いず)れ必ず再び緊張状態 ── 最悪の場合は「戦争」 ── が訪れる。その時期を一時的に先延ばしにしたに過ぎない訳です。ですから、今現在、尖閣を巡って両国関係が、戦後国交回復(実際には「国交回復」では無い。蒋介石の中華民国と断交して、毛沢東の中華人民共和国と「国交樹立」したのだから)以来最悪レベルにあるとしても、日本は絶対に自らの主張を崩してはいけませんし、例え戦争状態に突入する事になるとしても一歩も引いてはならないのです。この様な主張をすると「竹下は実際の戦争を知らないから、こんな主張が出来るのだ!」等と非難する向きもあろうかと思いますが、彼(か)の「東洋の眠れる獅子」 ── 西太后が事実上の女帝として君臨した王朝末期の清国は、阿片戦争の敗北以来、英仏を初めとする西欧列強に嘗(な)められ、次々と領土を蚕食(さんしょく)され半植民地化されていきました。詰まり、弱肉強食の国際社会に於いて、他国に対し弱みを見せてはいけないのです。何故なら、周辺諸国はその成り行きを見ていない様で実は注視しており、日本がある国 ── 「中国」 ── の理不尽な要求をその強圧的な態度により受け入れてしまったら、「右に倣(なら)え」の如く他国も日本に対して多かれ少なかれ似た様な態度で接してくるであろう事が国際常識だからです。ましてや、日本は「中国」だけで無く、北鮮・韓国・ロシアと言った敵国・仮想敵国と軒(のき)を接しているのです。(言い方を変えれば、日本は治安の悪い地区に居を構えている様なものなのである) 詰まり、「中国」に対する譲歩は独り「中国」に止(とど)まらず、北鮮・韓国・ロシアに対する譲歩と同義である ── その様に考え、その事を踏まえた上で行動せねばならないのです。ところで、冒頭から長々と持論を展開してきましたが、昨今、尖閣に対する「中国」の常態化する領海・領空侵犯や一触即発の事態を招きかねない挑発的行動を見るに付け、私には現在の「中国」が、「日本にとっての『匈奴(きょうど)』である!」様にしか見えないのです。では、「匈奴」とは一体何なのか? それに付いて触れたいと思います。

 「匈奴」とは、支那の夏代(それ以前の三皇五帝時代から共)から支那北方、モンゴル高原から中央アジア北方のステップ地帯に勢力を張った遊牧騎馬民族であり国家の事です。時代々々で、「葷粥(くんいく,ヒュエンツュク)」(夏代)、「鬼方(コイファン)」(殷代)、「獫狁(けんいん)」(周代)、「匈奴(フンナ)」(漢代)等と漢字表記は異なりますが、孰れも同一の民族・国家を指(さ)していたものと考えられています。民族的にはモンゴル系或(ある)いはテュルク系(「テュルク」とはトルコの事である。今でこそトルコは小アジア(アナトリア)に国を構えているが、故郷はモンゴル高原であり、長い期間を要して西へと大移動したのである)とされ、4世紀に西ローマ帝国を滅亡に追いやったゲルマン民族の大移動を誘発、東は現在のロシア南部から西はドイツ・ドナウ河畔、北はバルト海沿岸から南は北イタリアに至る広大な帝国を築いたアッティラ大王のフン族も南北分裂後に西遷した北匈奴の末裔とされています。(西暦48年に分離独立した南匈奴は後漢と同盟して北匈奴を攻撃。その結果、北匈奴は後漢の勢力圏から西遷し「悦般(えちはん)」、「エフタル」と名を変え、ヴォルガ河の東方から「フン族」として欧州に侵入したと言われている) この匈奴は支那人の中華思想から見れば北方の蛮族 ── 「北狄(ほくてき)」 ── でしたが、支那の戦国時代、列国間の戦争にも深く関与すると同時に、文化的にも影響を与え、戦国七雄(当時、有力だった秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七ヶ国)の内、北の辺境にあった趙を軍事強国に押し上げる為、時の君主・武霊王(在位 紀元前326~298)をして匈奴伝来の胡服騎射(馬上から矢を射る為、馬に跨(またが)れる様にズボンを採用)の戦法を導入せしめた程です。その戦国時代も始皇帝(秦王在位 紀元前246~221,皇帝在位 紀元前221~210)の秦による天下統一で幕を閉じ、支那は新たに王の中の王「皇帝」の治める秦朝、そして、短期間で滅亡した秦に代わって、天下を再統一した劉邦(漢の高祖:在位 紀元前202~195)の漢(前漢)へと時代は移(うつ)ろいます。その中で北方に勢力を張っていた匈奴は、度々、支那列国が築いてきた防衛線であり事実上の国境線でもあった「万里の長城」を越えて南侵し、国人や農作物を略奪していきました。そして、遂に匈奴と漢との歴史に残る重要な戦いが起きます。

 紀元前200年、劉邦は匈奴に対する防備として代(現山西省北東部)に腹心の韓王・韓信(通称は「韓王信」)を赴任させますが、匈奴の盛強さを間近に見た韓王信は戦う事の無謀さを知り、匈奴との和平を劉邦に進言します。然し、この進言は聞き入れられないばかりか、韓王信は逆に皇帝の命に背(そむ)いた反逆者の烙印(らくいん)を押され、命の危険さえ覚える事となります。そして、遂に韓王信は漢を見限り、自ら率いていた軍勢諸共(もろとも)匈奴へと亡命。匈奴の君主・冒頓単于(ぼくとつぜんう)は韓王信の兵を加えた総勢40万もの大軍を率いて、漢領の太源(現山西省太原市)へと侵攻します。この匈奴の侵略に対し、業(ごう)を煮やした皇帝・劉邦も躬(みずか)ら32万に及ぶ大軍を率いて平城(現山西省大同市)に出陣、匈奴軍を迎え撃ちます。然し、劉邦よりも冒頓単于の方が一枚も二枚も上手(うわて)、戦上手(いくさじょうず)でした。匈奴軍はわざと弱兵ばかりで漢軍の攻勢に押されて退却している様に見せ掛け、劉邦の本隊を敵地深く誘い込んだのです。そして、劉邦が気付いた時には補給も援軍も更には退路さえも断たれ、白登山(現山西省大同市)で四方から包囲されてしまいました。孤立し絶体絶命の劉邦軍は7日間に亘(わた)って包囲された挙げ句、遂に冒頓単于の妃(君主号を「単于」と称すのに対し、妃は「閼氏(えんし)」と称す)に贈り物をする事で包囲網の一角を解かせ、そこから命からがら首都・長安(現陝西省西安市)へと逃げ帰る惨敗を喫しました。これが世に名高い「白登山の戦」である訳ですが、劉邦軍の惨敗もさる事乍(なが)ら、この戦が残したもの、そちらの方が深刻でした。漢は皇帝が天下を治め、「漢帝国」と呼ばれる事もある支那歴代王朝(中華帝国)を代表する王朝です。それは「漢字」や「漢方」、更には「漢民族」の様に、「漢」が支那の代名詞として用いられる程、後世に多大な影響を残した王朝であり時代であった事からも窺(うかが)えます。その「中華帝国」漢が、「北狄」匈奴に敗れたのです。戦後、「敗戦国」の君主である劉邦は「戦勝国」である匈奴に対し、毎年、貢納物を献上せねばならない屈辱的な和平条件を飲まされ、以後、漢は第7代・武帝(劉徹)の代迄、70年余に亘って匈奴に対しては弱腰外交に終始、匈奴の属国と言う地位に甘んじる事となったのです。

 扨(さて)、「白登山の戦」を通して、漢と匈奴の関係に付いて述べた訳ですが、これはその儘、現代の日本と「中国」の関係にも当て嵌(は)まるものです。即(すなわ)ち、漢を日本に、匈奴を「中国」に当て嵌めれば・・・海と空の国境線を越えて尖閣周辺の日本領海・領空を侵犯してくる「中国」は、正に万里の長城を越えて度々、漢領へ侵入した匈奴そのものです。その様な「中国」に日本が軍事的に敗北したり、いや軍事的敗北を喫しない迄も外交面で屈服する様な事にでもなれば、劉邦が冒頓単于に誓わされた様な理不尽且つ屈辱的な和平条件を飲まされ、その後、長期間に亘って日本は「中国」の事実上の属国の地位に堕(お)とされる事は必定(ひつじょう)です。日本は戦後、大東亜戦争の敗戦国として戦勝連合国より「日本軍国主義」を柱とする一方的な歴史観を押し付けられ、内にあっては自らの民族・国家に対する誇りを抱かせる事を阻(はば)む「自虐史観」(と言う一種の宗教であり信仰)をつい最近迄信奉させられてきました。その間、60有余年。その自虐史観を払拭、洗脳された日本人の意識を覚醒せんと欲する安倍晋三総理の「戦後レジュームからの脱却」が第二次安倍内閣の発足で再起動しようとしている矢先、「白登山の戦」後、匈奴に屈服させられた漢と同じ立場に立たされる様な事にでもなれば、今度は60有余年では済みません。百年、二百年、いやそれ以上の長きに亘って、日本は「中国」の身勝手且つ自己中心的な歴史観に呪縛され、「中国の軛(くびき)」に翻弄される事でしょう。我々現役世代のみなせず、子や孫、更にはその先、後々の世代に迄禍根を残す、その様な事が決してあってはならないのです。その点からも、我が日本は決して「中国」に屈してはなりませんし、事と次第によっては一戦交える覚悟と決意を「中国」に示さねばならない。そう、私は思うのです。
竹下義朗 TAKESHITA Yoshiro

(本文は平成25年2月6日、ウェブサイト『帝國電網省』に於いて発表したものです)

by ayanokouji3 | 2013-02-11 21:26 | Comments(0)  

<< 日台交流について-3 尖閣問題について >>