言葉の限界について
自虐史観について議論する上で、言葉の問題は避けて通れない。日本語の中でも様々な表現・言い回しがあり、内容に入る前に形式面で辟易することがある。言葉はその人の出身や性格を如実に反映している。
また、自虐史観と反自虐史観の立場は、表現の相違に過ぎないという場合もあるが、多くはその人が読書により培って来た表現の範囲に制約されるのである。従って、自虐史観と反自虐史観とで、それぞれ使用される水と油のような表現の中でいくら議論しても決着しないのは当然のことである。言葉には限界があることを知る必要がある。
外国人の場合は更に複雑となる。日本人同士であれば簡単に察することが出来る事柄も、直訳した文章を読んでも意味が判らないことが多い。否定していても実は肯定している場合がある。逆の場合もある。国民性によるところもある。
言葉に限界がある以上、言葉による議論は不毛に終わることが多いので、途中で止めることも一法である。
言葉を用いず、議論出来るとすれば、中島敦の「名人伝」のような至芸のレベルとなるが、これは固より凡人には望むべくもない。
(註)かつて、在日三世と思われる人より、次のようなメールを受取ったことがある。冷静に考えると、言葉の遊戯に過ぎないとはいえ、何と哀れではあるまいか。
『支那と記述する場合、Japanを漢字表記した
邪邦(xie bang )シェバン。よこしまな国。
痂邦(jia bang )ジャバン。かさぶたの国。
枷邦(jia bang )ジャバン。首かせの国。
といったモノをあてる必要性があるように思うのですが、如何ですか?』
また、自虐史観と反自虐史観の立場は、表現の相違に過ぎないという場合もあるが、多くはその人が読書により培って来た表現の範囲に制約されるのである。従って、自虐史観と反自虐史観とで、それぞれ使用される水と油のような表現の中でいくら議論しても決着しないのは当然のことである。言葉には限界があることを知る必要がある。
外国人の場合は更に複雑となる。日本人同士であれば簡単に察することが出来る事柄も、直訳した文章を読んでも意味が判らないことが多い。否定していても実は肯定している場合がある。逆の場合もある。国民性によるところもある。
言葉に限界がある以上、言葉による議論は不毛に終わることが多いので、途中で止めることも一法である。
言葉を用いず、議論出来るとすれば、中島敦の「名人伝」のような至芸のレベルとなるが、これは固より凡人には望むべくもない。
(註)かつて、在日三世と思われる人より、次のようなメールを受取ったことがある。冷静に考えると、言葉の遊戯に過ぎないとはいえ、何と哀れではあるまいか。
『支那と記述する場合、Japanを漢字表記した
邪邦(xie bang )シェバン。よこしまな国。
痂邦(jia bang )ジャバン。かさぶたの国。
枷邦(jia bang )ジャバン。首かせの国。
といったモノをあてる必要性があるように思うのですが、如何ですか?』
古川 宏 FURUKAWA Hiroshi
by ayanokouji3 | 2005-05-10 20:38 | Comments(0)