意見の相違について
人間、相互にその意見は尊重する必要がある。歴史観に関する意見の相違、齟齬というものも他の案件に関するものと同じく、ただ単に相手を批判・攻撃すればよいというものでもない。他方、暴言と思えるものにも真実を含んでいることがある。
以前、政治家による「暴言」とされるものが問題になっていたが、マスコミで報道されるのが判っていながら、「暴言」とされるのを喜ぶ「確信犯」もいたようである。
例えば、自分の思想傾向からすると当然と思えることも、別の思想傾向の持主からすると、とんでもないということになる。この距離・差というものは中々埋め難いものがある。ならば、別に無理して共感を求めたり、互いに擦り寄る必要はない。「縁なき衆生は度すべからず」ともいうではないか。
歴史観の問題は宗教と同じく個人の内面、信条にかかわるもので、奥が深い。心に秘めて置くのもまた自由ではある。
以前、政治家による「暴言」とされるものが問題になっていたが、マスコミで報道されるのが判っていながら、「暴言」とされるのを喜ぶ「確信犯」もいたようである。
例えば、自分の思想傾向からすると当然と思えることも、別の思想傾向の持主からすると、とんでもないということになる。この距離・差というものは中々埋め難いものがある。ならば、別に無理して共感を求めたり、互いに擦り寄る必要はない。「縁なき衆生は度すべからず」ともいうではないか。
歴史観の問題は宗教と同じく個人の内面、信条にかかわるもので、奥が深い。心に秘めて置くのもまた自由ではある。
古川 宏 FURUKAWA Hiroshi
by ayanokouji3 | 2005-05-10 20:36 | Comments(0)