イラク戦争を振り返る-2
自虐史観というのは、遠い昔の国の歴史を弾劾するものではなく、日常的に頻繁に起り得るものである。それは、主として女子供の潔癖性から来る、自分だけは正しいことをしている、悪いのはほかの人間達だ、とか、自らを悲劇のヒロインとし、被害妄想を抱き、それを唯一の存在意義としている、世の哀れな人々の拠って立つところの逃避場所である。或は、ある人の言葉を借りれば、恰も「全身の動脈硬化症等によりて精神及び身体の萎縮(アトロフヰィー)に陥り居るものであつて、其為に精神の偏狂状態を来(きた)し」た老女が、現在の境遇をはかなんで、不幸の原因を過去に求めつつ、愚痴を言いながら悶死して行くようなものではなかろうか。更に、職場での上司への陰口、トップの方針への面従腹背等も自虐史観の萌芽とも言える。こうした人達は、無責任な下男・下女根性からかかる行為に及ぶが、自ら新たに物事を企図し、実行するといった熱意は毛頭ない、いわば世間のお荷物的存在であり、社会への貢献度かられば「ゴクツブシ」に等しい存在である。
自虐史観から得られるものは何もない。父祖の事蹟を葬り去り、無視し、自分の人生は一代で成立するというような低レベルの思考で、複雑な社会を満足に乗り切れる訳がない。自虐史観から脱却するには、目を閉じ、耳をふさぎ、有害図書(例えば司馬歴史小説の類)・映画(例えば山本薩夫監督作品の類)から遠ざかり、自分の頭で父祖の歩みに思いを致すことが先決である。次に、当時の社会のレベルと今の社会のそれとを比較する。また、身の周りで起っている不条理な出来事を誰かや何かのせいにしていないかを三省してみる。そうした上で、一定の覚悟をもち、例えば、映画「野麦峠」や「戦争と人間」をみると、父祖と当時の社会との関わり合いが次第に見えて来る。また、テレビドラマ「おしん」も、単純に感動することはなくなり、冷静にみることが出来るようになる。
自虐史観から得られるものは何もない。父祖の事蹟を葬り去り、無視し、自分の人生は一代で成立するというような低レベルの思考で、複雑な社会を満足に乗り切れる訳がない。自虐史観から脱却するには、目を閉じ、耳をふさぎ、有害図書(例えば司馬歴史小説の類)・映画(例えば山本薩夫監督作品の類)から遠ざかり、自分の頭で父祖の歩みに思いを致すことが先決である。次に、当時の社会のレベルと今の社会のそれとを比較する。また、身の周りで起っている不条理な出来事を誰かや何かのせいにしていないかを三省してみる。そうした上で、一定の覚悟をもち、例えば、映画「野麦峠」や「戦争と人間」をみると、父祖と当時の社会との関わり合いが次第に見えて来る。また、テレビドラマ「おしん」も、単純に感動することはなくなり、冷静にみることが出来るようになる。
古川 宏 FURUKAWA Hiroshi
by ayanokouji3 | 2005-04-08 21:11 | Comments(0)