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日本の植民地経営について-4

さて、『日本の植民地経営について-1』では、父祖の感じたことに松下芳男氏の所見を加えた上で所感を記し、『日本の植民地経営について-3』では中島敦の小説に見る植民地の実態の一端に知人の概論を重ね合わせ、その上で、個々人の出自の解明が歴史観の是正につながり、延いては与論の形成に基づく日本の国としての「普通」の対応への途に資することを述べてみた。

そこで、ここからが小生の持論に入る訳であるが、植民地経営というものは、最初から間違いのないプランがあって、問題なく進んだという訳ではなかった。植民地には様々な「人種」-少壮官僚、農業実践者、商工自営業者、食いつめた浪人達、花柳界の人々-が現地人と渾然一体となり社会を形成していたことだろう。(註-小生の血筋につながる者が軍や企業にいたとしても、行動範囲は狭い一小部局に過ぎない。従って、伝聞による知識にはもとより限りがある。)

植民地とは飽迄も植民地である。日本人を現地人と待遇を全く同じにする訳には行かない。植民地とは国家の庇護の下に外国人がリスクをとって現地人と調和して生きる社会である。国家の庇護とは軍の力であり、宗主国の管理能力である。日本は、手を拡げ過ぎた。結局、極東地域の面倒を一手に引き受けることになり、米英等との軋轢を生じ、狙い撃ちにされた。この事実を否定することは出来ない。併しながら、台湾・樺太・韓国・青島・南洋諸島・満洲で期間の長短を問わず、国家として植民地経営を行った、その実績を否定的にとらえるべきではない。この入口の部分を誤解してしまうと、国家による手当たり次第の侵略に基づく植民地政策といった観点が突出することになる。過去の植民地経営の肯定的評価は、子供のうちから脳裏に焼き付けておく必要がある。愛国以前の問題であり、父祖の辿った歩みを無にしないためである。父祖の事蹟を、自己の確固とした考えを以て批判するのは一向に構わない。問題なのは、世上多く見られるように、父祖の事蹟に関し無知であり、無関心であることである。また、両親や教師が教えてくれなかった、教科書に載っていなかった、教科書が間違っていた等といい、自らは不作為のまま老いて、ただ生きているだけの高齢者となって行くのは、まことに腑甲斐ない話ではあり、日本人として恥である。

新しい歴史教科書の普及に心血を注いでおられる有志には失礼な表現ではあるが、歴史は教科書の単なる記述から学ぶことは出来ないし、ましてやデモシカ教師のおざなりな説明を聞いても何も得るものはない。また、思考停止した文科省担当者や御用学者に自己批判を求めても始まらない。例えば、植民地に関する記述が亡国的な、どこの国の教科書か判らないものでも結構である。それを反面教師として、論駁して行けるだけの智恵を子供達に授けるのが先決である。そのためには、子供達に先ず誇りをもたせることである。それには自己の出自を究明させることであり、そのことが延いては子供達が国の歴史の歩みに自信をもつ契機となるが、その前に大人達が率先垂範してみせることが必要である。

古川 宏 FURUKAWA Hiroshi

by ayanokouji3 | 2005-04-01 20:09 | Comments(0)  

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