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歴史認識一考-3

古川氏より「歴史認識」についての論攷(ろんこう)が寄せられたので、私も思う所を述べたいと思う。

大東亜戦争に於ける敗戦以降、日本は支那や朝鮮(及び、口にはしないが米国も)から事ある毎に「歴史認識」を糾弾されてきた。曰く、「過去の戦争責任」や「軍国主義」云々である。然(しか)し、翻(ひるがえ)ってみて、果たして万人が受け入れ可能な「歴史認識」等と言うものがこの世にあるのであろうか?

近代日本の歴史の分岐点である幕末維新に於いては、錦の御旗を掲げ「官軍」となった薩長方と、飽(あ)く迄(まで)も徳川の藩塀(はんぺい)として佐幕に身を置き「朝敵」として討伐された会津藩。この両者に於ける幕末維新に対する「歴史認識」は相反する。だからこそ、会津(福島)の老世代に於いては、未だに薩長(鹿児島・山口両県)を毛嫌いする向きがあるのである。

斯(か)くも日本国内の「歴史認識」ですら、統一を図るのが難しいと言うのに、ましてや、国家間の「歴史認識」を統一する事等到底出来るものでは無い。そこには、純粋な意味での「正しい歴史」とは別に、国益が絡んだ政治・経済面での凌(しの)ぎ合いも加わり、寧(むし)ろ、「不純な動機」の方が幅を利(き)かす世界である。

となれば、答えは簡単である。相手の「歴史認識」は一応伺うものの、無闇に迎合する必要等無いと言う事である。支那や朝鮮の抱く「歴史認識」に対し、日本が歩み寄る必要はおろか、それを受け入れる必要等全く無い。相手は相手、我は我である。日本は日本なりの「歴史認識」を持っていれば、それで良いのである。

人の世は千差万別。性格も考え方も全く異なる者の集合体である。国家も又然り。話の合う国同士がある反面、どうあっても話が噛み合わぬ国同士もある。日本は隣に偶々(たまたま)、支那や朝鮮と言った「話の噛み合わぬ」相手が纏(まと)まって居た。唯(ただ)それだけの事なのである。であれば、余り卑屈になったり、深刻になる必要等全く無い。「仕方無い」、「已(や)むを得ない」と腹を括(くく)り、体(てい)よく謝絶すれば良い。それでも、相手が歩み寄ってきたなら、その時、初めて口をきけば良い。

日本はその程度に思っていれば良い、と思うのだが、読者諸兄は如何(いかが)なものだろうか?

竹下義朗 TAKESHITA Yoshiro

by ayanokouji3 | 2009-08-02 21:51 | Comments(0)  

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