過去への言及について
日中関係について、例えば、文革時の出来事、当時の指導体制、日中国交回復に至る過程およびこれらの同時代の日本のことにつき語ることの出来る筈の団塊の世代の人々は既に老い、年金額の多少を云々するのが彼等(かれら)の生き甲斐となっているかのようで、哀しいことである。
従って、歴史というには大袈裟(おおげさ)だが、少なくとも過去の細々した出来事を語る日本人の相手が年々減っている現状では、中国共産党の教育に馴染(なじ)んできた中国人の若者と会話をするのが一つの楽しみとなっている。
ただ、中国人の若者達と台湾を話題にすることは控えており、それは台湾問題が愛国的青年輩においてはデリケートなものであり、折角盛り上がった話に水を差すようなことはしたくないからである。
ましてや、台湾人と遭(あ)ったとしても、中国との関係につきたずねることはしたくない。敢えて聞く迄もなく、人により結論は明々白々であり、過去への言及が将来への希望に不安を投げかけることになる可能性もあるからである。
従って、歴史というには大袈裟(おおげさ)だが、少なくとも過去の細々した出来事を語る日本人の相手が年々減っている現状では、中国共産党の教育に馴染(なじ)んできた中国人の若者と会話をするのが一つの楽しみとなっている。
ただ、中国人の若者達と台湾を話題にすることは控えており、それは台湾問題が愛国的青年輩においてはデリケートなものであり、折角盛り上がった話に水を差すようなことはしたくないからである。
ましてや、台湾人と遭(あ)ったとしても、中国との関係につきたずねることはしたくない。敢えて聞く迄もなく、人により結論は明々白々であり、過去への言及が将来への希望に不安を投げかけることになる可能性もあるからである。
古川 宏 FURUKAWA Hiroshi
by ayanokouji3 | 2009-04-25 20:27 | Comments(0)